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マセラティ・カムシン:砂漠の熱風が生んだ、最後のフロントエンジンGT

マセラティ カムシン(1972-83 イタリア) - car-kobanashi.comマセラティ・カムシン(欧州仕様・初期型)諸元データ

・販売時期:1974年~1982年
・全長×全幅×全高:4,400mm × 1,804mm × 1,180mm
・ホイールベース:2,550mm
・車両重量:1,500kg
・ボディタイプ:2ドア2+2クーペ(リアハッチバック)
・駆動方式:FR(フロントミッドシップエンジン・リア駆動)
・エンジン型式:AM115型 V型8気筒DOHC
・排気量:4,930cc
・最高出力:320ps(235kW)/5,500rpm
・最大トルク:49.1kgm(481Nm)/4,000rpm
・トランスミッション:5速MT(ZF製)または3速AT(ボルグワーナー製)
・サスペンション:前:ダブルウィッシュボーン式独立懸架 / 後:ダブルウィッシュボーン式独立懸架
・ブレーキ:前後ディスクブレーキ(シトロエン式ハイドロニューマチック油圧システム)
・タイヤサイズ:215/70VR15(前後同一)
・最高速度:約270km/h(欧州仕様・メーカー公称値)
・燃料タンク:データなし
・燃費(JC08モード):不明
・価格:不明(当時のマセラティ最高額モデル)
・特徴:
   ・カロッツェリア・ベルトーネとガンディーニによる楔形デザイン
   ・シトロエンSMと共通の油圧システムを全面採用
   ・スペアタイヤをエンジン前方に収めた50対50の重量配分設計

 

マセラティというブランドから連想する車は、人によってさまざまだと思います。

グラントゥーリズモの優雅な走りっぷりを思い浮かべる方もいれば、クアトロポルテの堂々とした佇まいを挙げる方も。

でも今回スポットを当てるのは、そのどちらでもありません。

マセラティ・カムシンという車をピックアップしたいと思います。

この車、1974年から1982年までの間に、生産されたのはわずか435台ほど。

現存する台数を考えると、日本国内で実車を見かける機会は、ほぼないと言っていいかもしれません。

そのくらい、希少な存在なんです。

でもこの車が面白いのは、単に数が少ないからではありませんでした。

カムシンが生まれた1970年代のマセラティは、実はかなり複雑な時代のただ中にありました。

経営権が渡り歩き、会社の方向性そのものが揺れ動いていた、いわば激動期の狭間に誕生した車です。

そんな時代に、あえて挑戦的なデザインと風変わりなメカニズムを詰め込んで送り出されたのが、このカムシンでした。

見た目は、まるでナイフを思わせるような鋭い楔形のボディ。

その内側には、フランス車ゆずりの油圧システムという、ちょっと予想外の仕掛けが隠されています。

イタリアの美意識と、フランスの合理主義。

まったく毛色の違うふたつの文化が、1台の車の中で同居している。

そう考えると、なんだか異文化交流のドラマを見ているような気分にもなってきます。

今回は、そんなマセラティ・カムシンの魅力を、デザイン、メカニズム、そして歴史という3つの角度から、じっくりとひも解いていきたいと思います。

ベルトーネとガンディーニが刻んだ、鋭利な楔形フォルムの正体

カムシンの外観を語るとき、まず紹介しなければならない人物がいます。

それは、マルチェロ・ガンディーニです。

ランボルギーニ・カウンタックや、ランチア・ストラトスHFのデザインを手がけたことでも知られる、伝説的なカーデザイナーですね。

カムシンは、彼がカロッツェリア・ベルトーネに籍を置いていた時代に世に送り出した作品のひとつになります。

1972年、パリサロンでコンセプトモデルとして初めてお披露目された際、会場の反応はかなり驚きに満ちたものだったよう。

というのも、それまでのマセラティが持っていた丸みのある優雅なラインとは、まるで方向性が異なっていたからです。

ボンネットの先端からルーフを通り、テールに至るまで、まるで定規を当てて引いたかのような直線が貫かれています。

たとえるなら、丸い石けんのような柔らかい造形から、研ぎ澄まされたナイフへと生まれ変わったような感覚です。

それほどまでに、当時の常識を覆す造形でした。

その中でも特に目を引くのが、リア周りのデザインです。

テールランプは、リアガラスの中に直接埋め込まれるという、非常に大胆な処理が施されています。

普通、ランプというのはボディパネルに取り付けるものですよね。

ところがカムシンは、ガラスそのものを光らせる仕掛けを組み込んでしまいました。

でもこれは見た目のインパクトだけでなく、実は空気の流れを整えるという意味でも、理にかなった工夫だったと言われています。

ボンネットまわりにも、独自の工夫が凝らされています。

エンジンルームの上部には半透明のガラスパネルが配され、外からうっすらとV8エンジンの存在をうかがい知ることができるのです。

まるで洋菓子店のショーケースのよう、中身をちらりと見せる演出と考えるとオシャレですね。

普段は隠れているはずのエンジンを、あえて覗かせる。

こうした遊び心のある発想こそ、ガンディーニならではの持ち味だと言えるでしょう。

さらに、ポップアップ式のヘッドライトも、この車の表情を大きく左右する要素のひとつ。

昼間は鋭く静かな表情をしていても、夜になってライトが持ち上がると、一気に猛獣のような精悍な顔つきへと変わります。

昼と夜とで、これほど印象が変わる車というのは、実はそう多くありません。

このギャップの大きさこそ、カムシンを見た人の記憶に強く焼きつく理由のひとつなのではないかと思います。

当時のマセラティは、ボーラやメラクといった兄弟たちと同じく、名だたるデザイナーたちの実験の場のような側面を持っていました。

そんな中でもカムシンは、もっとも直線的で、もっとも尖った存在として、今も独特の存在感を放ち続けています。

優れたデザインというのは、時代を経てもなお色褪せないことがあります。

カムシンのシルエットは、まさにその好例だと言えるのではないでしょうか。

シトロエンの油圧技術が息づく、一風変わったマセラティ

カムシンを語るうえで欠かせないもうひとつの要素、それはエンジンではなく、油圧システムにあります。

「油圧?」と、意外に思われる方も多いかもしれません。

実はカムシンが誕生した1970年代前半、マセラティはフランスのシトロエンの傘下に置かれていました。

情熱的なイタリアのスポーツカーメーカーが、合理性を重んじるフランスの自動車メーカーの一部門になっていたのです。

その結果として採用されたのが、シトロエンSMなどにも搭載されていたハイドロニューマチックという高圧油圧システムでした。

これは簡単に言うと、油圧の力を利用して、ブレーキやクラッチ、ステアリング、さらにはヘッドライトの開閉までを操作する仕組みです。

当時としては、かなり先進的な発想だったと言えます。

一般的な車のブレーキは、ペダルを踏んだ力がそのまま車輪に伝わって効きますよね。

ところがカムシンの場合は、常時高圧のオイルが循環しており、ペダルはそのオイルの流れをほんの少し切り替えるだけの役割を担っています。

たとえるなら、重い荷物を自分の腕力で持ち上げるのではなく、油圧ジャッキにそっと触れるだけで持ち上がる感覚に近いかもしれません。

そのため、ブレーキペダルは驚くほど軽いタッチで反応します。

初めてこの車に乗った人は、この軽さに戸惑い、思わず踏みすぎてしまうことも多かったようです。

笑い話のように聞こえますが、当時のオーナーにとっては、なかなか切実な悩みだったに違いありません。

ステアリングにも同様の油圧アシストが効いており、こちらも驚くほど軽く回すことができます。

ただし、この独特の軽さに慣れるまでには、それなりの時間が必要だったとも伝えられています。

普段乗り慣れた車とは、まったく異なる感覚を求められる。

これもまた、カムシンという車が持つ、癖の強さを物語るエピソードのひとつです。

ヘッドライトの開閉についても触れておきましょう。

多くのポップアップライト搭載車は電動モーターで駆動しますが、カムシンはここでも油圧の力を利用しています。

スイッチを入れると、すっとライトが持ち上がってくる様子は、まるで精密な機械仕掛けのおもちゃを見ているようで、どこか愛らしさすら感じさせます。

こうした油圧中心の設計は、整備のしやすさという観点で見ると、決して扱いやすいものではありませんでした。

専門的な知識や専用部品が必要になるため、現代でもカムシンを維持するオーナーやショップには、相応の技術力と根気が求められます。

それでも、この一風変わった仕組みこそが、カムシンをほかに類を見ない存在にしている理由でもあるのです。

イタリアの心臓に、フランスの神経がめぐっている。

そんな異色の組み合わせを味わえるところに、この時代ならではのマセラティの魅力があると言えるでしょう。

「砂漠の熱風」が語る車名の由来と、マセラティ激動期の象徴

マセラティには、車名に「風」の名前を冠するという、長く受け継がれてきた伝統があります。

ギブリ、ボーラ、メラク、そしてカムシン。

これらはすべて、世界各地で吹く風の名前に由来しています。

カムシン(Khamsin)とは、エジプトからアラビア半島にかけて吹く、乾いた熱風を意味する言葉です。

砂漠を渡ってくる、強く熱を帯びた風。

その名を与えられたこの車は、まさに名にふさわしい、鋭く力強い佇まいを備えていました。

こうした風にちなんだ車名のシリーズは、俗に「砂漠の風シリーズ」と呼ばれることもあります。

単なる語感の良さで選ばれたわけではなく、マセラティというブランドが持つ、情熱的でありながらどこか異国情緒を帯びた世界観を表現するための、大切な演出でもあったのです。

そしてカムシンが生まれた時代背景を知っておくと、この車への見方が一段と深まります。

当時のマセラティは、フランスのシトロエンの経営下に置かれていました。

ところが、そのシトロエン自身もオイルショックの影響で経営が悪化し、1975年にはマセラティを手放すことになります。

その後、経営を引き継いだのは、デ・トマソというイタリアの自動車メーカーでした。

つまりカムシンは、シトロエン時代に培われた技術を色濃く受け継ぎながら、デ・トマソ体制下で生産が続けられた、いわば時代の橋渡し役を担った1台だったのです。

経営母体が二転三転する中でも、生産が途切れることなく続けられたという事実そのものが、この車の粘り強さを物語っているように感じます。

もうひとつ、ぜひ押さえておきたいポイントがあります。

それは、カムシンがフロントにV8エンジンを搭載した、最後の伝統的なマセラティだったという点です。

同時期に存在したボーラやメラクは、エンジンを座席の後方に配置するミッドシップレイアウトを採用していました。

その一方でカムシンは、あえて伝統的なフロントエンジン方式を貫き通しています。

新しい技術と、古き良きグランツーリズモの様式。

そのふたつが同居しているところに、この車ならではの面白さが宿っています。

いわば、最新機能を備えたスマートフォンに、あえて物理ボタンを残しておくような、絶妙なバランス感覚だと言えるかもしれません。

激動の時代を生き抜き、複数の経営母体の思想を吸収しながらも、最後まで自分らしさを失わなかった1台。

それこそが、マセラティ・カムシンという車の本当の姿なのではないでしょうか。

まとめ

ここまで、マセラティ・カムシンについて、デザイン、メカニズム、そして歴史という3つの視点からご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

ガンディーニが手がけた鋭い楔形のボディは、今あらためて見ても、まったく古さを感じさせません。

むしろ、現代の車がどこか忘れかけている大胆さを、思い出させてくれるようなデザインです。

そして、シトロエン譲りの油圧システムという、少し変わったメカニズムも、この車だけが持つ個性でした。

驚くほど軽いブレーキに戸惑いながらも、その独特な感覚を乗りこなす楽しさは、便利になりすぎた現代の車ではなかなか味わえないものかもしれません。

さらに、シトロエンからデ・トマソへと経営が移り変わる激動の時代に誕生し、それでも435台という限られた台数を作り続けたという事実も、この車の物語に厚みを与えています。

派手さという点では、同時期のボーラやメラクに一歩譲るところがあるかもしれません。

しかし、フロントエンジンという伝統的な形式にこだわりながら、当時最先端のデザインと技術をまとったカムシンには、それらとはまた違う独自の魅力があります。

いわば、クラスの中で一番目立つタイプではないけれど、話してみると誰よりも中身が濃くて面白い、そんな存在なのかもしれません。

現存する台数は決して多くありませんが、もし機会があれば、ぜひ実際にその姿を間近で見てみてほしいと思います。

ガラス越しに覗くV8エンジンや、独特の質感をたたえた内装は、写真だけではなかなか伝わりきらない魅力にあふれています。

マセラティというブランドの奥深さを知るうえで、カムシンはとても良い入り口になってくれる1台です。

派手なスーパーカーだけが、マセラティではありません。

そのことを静かに教えてくれる、貴重な存在と言えるのではないでしょうか。