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華晨・中華BS6:欧州を目指した最初の中国セダン、その光と影

華晨・中華BS6 諸元データ

・販売時期:2004年~2010年
・全長×全幅×全高:4880mm × 1812mm × 1450mm
ホイールベース:2790mm
・車両重量:約1500kg
・ボディタイプ:4ドアセダン
・駆動方式:FF(前輪駆動)
・エンジン型式:4G63S4M(三菱製ベース)
・排気量:1997cc
・最高出力:122ps(90kW)/6000rpm
・最大トルク:17.5kgm(172Nm)/4500rpm
トランスミッション:5速MT / 4速AT
・サスペンション:前:マクファーソンストラット / 後:マルチリンク
・ブレーキ:前後ディスク
・タイヤサイズ:205/55R16
・最高速度:約200km/h(公称値)
・燃料タンク:70L
・燃費(実測):約9~10km/L
・価格:約13~17万元(当時の中国国内価格)
・特徴:
 1. ピニンファリーナによるヨーロピアンデザイン
 2. 三菱エンジンを採用した信頼性重視の構成
 3. 欧州市場への正式輸出を目指した中国ブランド初期の試み

 

2000年代の中国自動車業界は、世界の舞台に立つことを夢見て大きく動き始めていました。その中心にいたのが、遼寧省瀋陽に本拠を置く華晨汽車(Brilliance Auto)です。まだ多くの中国車が「安かろう悪かろう」と見られていた時代に、華晨は本気で欧州市場を目指しました。その旗印となったのが、2004年に登場したセダン「中華BS6(Zhonghua BS6)」です。ピニンファリーナがデザインを担当し、スタイリングはまるでイタリア車のように洗練されていました。当時の中国車としては異例の高級感を持ち、内外装の質感も一歩抜きん出ていたのです。華晨はこの車で「中国車も世界で通用する」ということを証明したかったのでしょう。実際、彼らはBS6をヨーロッパに輸出し、ドイツの街を走らせる計画まで立てました。しかしその挑戦は、華やかなデザインの裏に潜む現実をも浮き彫りにするものでもありました。

 

ピニンファリーナが描いた“中国製プレミアムセダン”

中華BS6の外観を初めて見た時、多くの人が「これが中国車なのか?」と驚きました。そう感じたのも当然です。この車のデザインを担当したのは、あのピニンファリーナフェラーリアルファロメオマセラティなど数々の名車を手掛けたイタリアの名門デザインハウスです。流れるようなサイドラインと、厚みを持たせたフロントフェイスは、当時の日本車や韓国車よりもヨーロッパ的な気品を漂わせていました。

中国車といえば、まだ角張ったボディや安っぽいプラスチック内装が当たり前だった時代に、この中華BS6は完全に別世界の存在でした。ドアの開閉音も重厚で、シートの質感もなかなかの仕上がり。当時の展示会では、外観だけ見て「ドイツ車の新ブランドか」と勘違いする人までいたといいます。

ピニンファリーナの狙いは、単なる“見た目の美しさ”ではありませんでした。ヨーロッパ市場に輸出するという明確な目標を持つ華晨の意向を受け、彼らは「欧州の街並みに溶け込むデザイン」を意識したのです。その結果、上品なクロームパーツの使い方や、丸みのあるルーフラインが見事に調和し、当時の中国車にはなかった洗練さを実現しました。

一方で、デザインが完成度を増すほど、逆に品質面の粗さが目立つという皮肉もありました。見た目は高級セダンなのに、ドアの立て付けやパネルの隙間が一定でない、内装のプラスチックが早くも白化するなど、まだ発展途上の中国製造の限界も露呈してしまったのです。それでも、「中国車もここまで来たのか」という感慨を多くの人に与えた功績は大きいと言えます。

 

衝突試験の衝撃、そして国産技術への転換点

中華BS6がヨーロッパで話題になったのは、デザインだけではありません。2007年、ドイツのADAC(ドイツ自動車連盟)による衝突試験で、驚くべき結果が公表されたのです。前面衝突試験で、車体は大きく潰れ、キャビンはほぼ原形を留めないほどの損傷を受けました。安全評価はわずか1つ星。この結果はヨーロッパ中のニュースで取り上げられ、当時“世界へ挑戦する中国車”として注目されていた華晨にとって、大きな痛手となりました。

この衝撃的な出来事は、中国の自動車産業全体に強烈な警鐘を鳴らすことになりました。単に「作る」だけではなく、「守る」ための技術が欠かせない――そう痛感させられた瞬間です。華晨は試験結果を受けて、ただ沈黙するのではなく、設計の見直しと安全構造の改善に踏み出しました。ボディ剛性の再設計、サイドインパクトバーの強化、溶接点の見直しなどを進め、のちのモデル「BS4」や「H530」では確実に安全性能を高めていきます。

結果的にこの出来事は、中国メーカーが“真の技術開発”に向かうきっかけとなりました。2000年代初頭までの中国車は、海外メーカーの図面やエンジンをもとにしたコピー製品が中心でした。しかしBS6以降、「自分たちの力で改良する」という意識が業界全体に広がっていったのです。皮肉にも、あの衝突試験が中国車の進化を早めたと言っていいでしょう。

今となっては、華晨汽車をはじめ多くの中国ブランドが欧州基準のクラッシュテストに合格し、EV時代には安全性でも高い評価を得ています。中華BS6の失敗は恥ではなく、むしろ“学びの原点”として中国自動車史に刻まれた事件でした。

 

BMWの影”を追った提携の時代

華晨汽車がヨーロッパでの成功を夢見た背景には、強力なパートナーの存在がありました。それがBMWとの提携です。2003年、華晨はBMW合弁会社「華晨宝馬汽車(Brilliance-BMW)」を設立しました。ドイツの高級車ブランドと手を組んだことは、中国自動車業界にとってまさに革命的なニュースでした。当時、中国の多くの自動車メーカーはまだ国内市場でのシェア争いに追われていた時代。そんな中で、華晨は“世界水準の技術と品質”を学ぶためにBMWを選び、そのノウハウを中華BS6の開発にも応用しようとしたのです。

しかし、理想と現実のギャップは大きいものでした。BS6はBMWの技術協力を直接受けてはいなかったため、あくまで「BMWに近づきたい」という願望が先行していました。例えば、シャシー構造のバランスや操縦安定性はドイツ車を意識して設計されましたが、実際の走行フィールはまだ洗練に欠け、エンジンやトランスミッションの連携もやや荒削りでした。それでも、乗り味の重厚さや直進安定性の高さなど、従来の中国車にはない“欧州テイスト”を感じさせたのも事実です。

この提携をきっかけに、華晨は技術開発体制を大きく変えていきました。BMWから製造工程や品質管理のノウハウを吸収し、それが後の「華晨BMW 3シリーズ」や「X1」などの国産モデルに結実していきます。つまりBS6は、BMWとの協業時代を生きた“橋渡し”の存在だったのです。

そして今、BMWの品質基準を取り入れた中国車は、欧州の街でも珍しくなくなりました。その原点には、あの中華BS6があった――そう思うと、この車が果たした役割は決して小さくありません。

 

まとめ

中華BS6は、単なる一台のセダンではありませんでした。まだ中国車が「安いだけ」と見られていた時代に、華晨汽車が世界へ挑んだ“希望の象徴”だったのです。ピニンファリーナの手による美しいデザイン、BMWとの提携を意識した高級感、そして衝突試験で突きつけられた厳しい現実。これらすべてが、中国の自動車産業に大きな転機をもたらしました。失敗も成功も含めて、BS6は中国車が「真のグローバルプレイヤー」になるための第一歩を示した存在でした。今ではBYDやNIOといったブランドがヨーロッパで評価される時代ですが、その礎の一部は、この華晨・中華BS6が築いたものです。華やかなデザインと苦い経験、その両方を背負ったBS6こそ、中国自動車の“青春時代”を象徴する車だったと言えるでしょう。