
フォード・エドセル・サイテーション(1958年) 諸元データ
・販売時期:1957年(1958年モデル)〜1958年
・全長×全幅×全高:5585mm × 2007mm × 約1450mm
・ホイールベース:124インチ(約3150mm)
・車両重量:約1890kg〜
・ボディタイプ:2ドアハードトップ / 4ドアハードトップ / コンバーチブル
・駆動方式:FR(後輪駆動)
・エンジン型式:E-475(メルキュリー系)
・排気量:6,699cc(410cu.in. V8)
・最高出力:345ps(257kW)/ 4600rpm
・最大トルク:約66kgm(647Nm)/ 2800rpm
・トランスミッション:3AT(テレタッチ式:ステアリング中央のボタン操作)
・サスペンション:前:独立懸架 / 後:リーフリジッド
・ブレーキ:ドラム(前後)
・タイヤサイズ:8.00×14
・最高速度:約190km/h(推定)
・燃料タンク:約76L
・燃費(推定):約4〜5km/L
・価格:約3,500〜3,800ドル(当時)
・特徴:
- エドセルブランドの最上級モデル
- テレタッチ式トランスミッション採用
- 豪華な2トーンペイントとメッキ装飾
1950年代後半のアメリカ――。経済は好調で、クルマはどんどん大きく、豪華になっていきました。そんな時代に、フォード・モーターは新たなブランド「エドセル」を誕生させました。目的はシンプル。シボレーとキャデラックの間にもうひとつの“金のなる木”をつくること。そうして1958年に登場したのが「エドセル・サイテーション」でした。これはエドセル・シリーズの中でも最上級モデルで、まさに豪華装備のてんこ盛り。流麗なラインに縦型グリル、そしてセンターボタン式のAT操作。今見てもインパクト抜群のスタイルです。
しかし、その斬新すぎるデザインや不運な販売タイミングが重なり、エドセルは「アメリカ自動車史上最大の失敗」とさえ言われてしまいます。けれど、それだけで終わらせるにはもったいない。そこにはメーカーの本気と、夢が詰まっていたのです。今回はそんな“悲劇の主役”エドセル・サイテーションを通して、時代の熱気と迷走、そして挑戦の物語をたどってみましょう。

「壮大な失敗」と語られたブランド:エドセル誕生の背景
1950年代のアメリカは、かつてないほどの好景気に沸いていました。大量生産・大量消費の時代が本格化し、自動車産業もその波に乗って拡大。各メーカーが多彩なラインナップを持ち始め、消費者は自分のステータスや好みに合った車を選ぶ時代へと移り変わっていきます。そんななか、フォード・モーターは一つの問題に直面していました。ブランド間の価格帯に「ぽっかりとした穴」があったのです。
当時のフォードは、低価格帯に「フォード」、高価格帯に「マーキュリー」や「リンカーン」を展開していましたが、中間層向けのブランドがありませんでした。そこで、シボレーとキャデラックの“間”にあたる新しい市場を狙って誕生したのが、新ブランド「エドセル」でした。命名には多くの議論があり、最終的には創業者ヘンリー・フォードの孫の名前「エドセル」に決定されましたが、すでにこの段階で社内でも迷走の気配が漂っていたとも言われます。
市場調査も徹底され、スタイリング案も数え切れないほど作られました。自信満々で投入されたエドセルは、1957年の秋、1958年モデルとしてついに発表されます。その頂点に位置するのが「サイテーション」でした。ですが、発売されたその瞬間から、時代の空気は変わっていたのです。景気は後退傾向に入り、派手なクルマへの関心はしぼみ始めていました。エドセルは、まさに時代の波に翻弄された存在だったのです。

最上級モデル・サイテーションの豪華装備と個性
「サイテーション」という名は、競走馬の名前からインスパイアされたもので、勝利と栄光をイメージさせるものでした。その名にふさわしく、1958年のエドセル・サイテーションは、まさに“盛りすぎ”とも言えるほどの豪華仕様で登場します。ラインナップには4ドア・ハードトップ、2ドア・クーペ、そしてコンバーチブルなどがあり、どれもフルサイズの堂々たるボディを持っていました。
最大の見どころは、その顔つき。馬の首と揶揄された縦型グリルは、見る人の印象に強烈に残ります。当時は水平基調のグリルが主流でしたから、この縦方向の開口部はまさに異端。しかしエドセルのデザイナーたちは、「他とは違う」ことを誇りにしていました。ボディは豪華な2トーンカラーや3トーン塗装も選べ、メッキ装飾はまばゆいほど。インテリアも大柄なアメリカ人を想定して広く設計され、ビニールやクロス張りのシートには鮮やかなパターンが施されていました。
さらにトピックとして外せないのが、ステアリング中央にある「テレタッチ」式のATボタンです。これはエドセルだけのユニークな機構で、ドライバーは手を離すことなく親指でギアを操作できるというものでした。今でこそステアリングスイッチは当たり前ですが、当時はあまりに先進的すぎたとも言えます。こうした個性的な装備群が、サイテーションを特別な存在にしていたのは間違いありません。
なぜ売れなかったのか?エドセル・サイテーションの顛末
エドセルは、発売初年度に20万台の販売を目標としていましたが、実際に売れたのはその半分以下。サイテーションに至ってはわずか9,000台余りしか生産されませんでした。なぜここまで失敗してしまったのでしょうか。原因は一つではありません。まずひとつは、消費者の期待と現実のギャップ。マーケティングでは“未来の車”のように煽られましたが、実物はベースがマーキュリーやフォードだったため、技術的な目新しさは乏しく、価格だけが高くついてしまいました。
さらに、製造や品質にも問題がありました。新しいブランドのため、各工場が慣れておらず、品質管理が安定せずトラブルが頻発。当時の消費者は保守的で、見た目が奇抜すぎるクルマにはなかなか手を出しませんでした。派手なグリルやテレタッチ機構も、話題にはなったものの「壊れやすい」「使いにくい」といった評判が広がってしまい、購買意欲を削ぐ結果になりました。
そして最大の不運は、発表直後に始まった景気後退(リセッション)です。アメリカ全体の消費意欲が急激に落ち込むなかで、未知の新ブランドにお金を出す人は限られていました。サイテーションは1958年限りで生産終了となり、エドセル自体も1960年を待たずして消滅します。こうして「サイテーション」は、栄光の名とは裏腹に、自動車史における“敗北の象徴”となってしまったのです。
まとめ
エドセル・サイテーションは、まさに時代のギャップに翻弄された悲劇の名車でした。フォードが多大な資金と労力を投じて作り上げたブランドの最上位モデルとして、サイテーションにはその時代の夢と技術、そしてマーケティングのすべてが詰め込まれていました。しかし、豪華すぎる装備と突き抜けた個性は、時代が求めるものとは少しずれていたのかもしれません。
それでも今、クラシックカー愛好家の間では、その“失敗”ゆえにコレクターズアイテムとして注目されているのも事実です。馬の首グリルも、テレタッチも、すべてが“あの時代にしか存在し得なかった熱狂のかたち”。失敗とは、挑戦の証でもあります。サイテーションはそのことを私たちに教えてくれる、忘れがたい1台です。