プジョー・202 諸元データ(1947年式 Berline)
・販売時期:1938年~1949年(戦中は生産中断)
・全長×全幅×全高:4000mm × 1460mm × 1550mm
・ホイールベース:2470mm
・車両重量:875kg
・ボディタイプ:4ドアセダン(Berline)
・駆動方式:FR(後輪駆動)
・エンジン型式:直列4気筒サイドバルブ
・排気量:1133cc
・最高出力:30ps(22kW)/ 4000rpm
・最大トルク:6.4kgm(63Nm)/ 2000rpm
・トランスミッション:3速MT
・サスペンション:前:独立コイル / 後:リーフリジッド
・ブレーキ:4輪ドラム
・タイヤサイズ:140-40(現代規格換算で約15インチ相当)
・最高速度:約100km/h
・燃料タンク:35L
・燃費(推定):約12〜14km/L
・価格:約24,000フラン(1940年代当時)
・特徴:
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フロントグリル内蔵型ヘッドライト
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戦後フランスで復活生産されたモデル
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空力を意識したモダンなデザイン
1930年代末のフランスに突如現れた、ちょっと変わった顔つきの小型車。それがプジョー・202です。大きな丸目ライトがグリルの中にすっぽり収まったデザインは、今見ても独特で、初めてこの車を見る人の多くが「えっ?これって1930年代のクルマなの?」と驚くほどの未来感があります。1938年にデビューした202は、まさに「先を走りすぎたクルマ」だったのです。
しかしこのクルマ、実はとんでもない時代の荒波に揉まれることになります。登場から間もなく第二次世界大戦が勃発し、生産は一時中断。その後、戦後フランスの復興とともに再び姿を現すという、まるで映画のような運命をたどります。
今回はそんなプジョー・202について、3つの角度からご紹介します。まずは当時としては異例の前衛的デザイン、続いてヘッドライトのユニークな配置に隠された意味、そして最後に戦争を挟んだドラマティックな復活劇へ。時代を超えて愛される理由が、きっと見えてくるはずです。
未来を見ていた1930年代:流線型デザインの先進性
1930年代といえば、世界の自動車産業が次第に“箱型”から“丸み”へと移行しはじめた過渡期。そんな中で、プジョー・202のボディは明らかに一歩先を行っていました。まるで風を切るようななめらかなラインと、フロントからリアへと流れるようなシルエット。これは当時の航空機設計の影響を色濃く受けた「ストリームラインデザイン」の考え方を取り入れたものでした。見た目の美しさだけでなく、空気抵抗を減らして燃費や安定性を向上させようという、今で言う“エアロダイナミクス”への意識がすでに芽生えていたのです。
このボディデザインは、単なる「モダン」ではなく、フランスならではの“エレガンス”が随所に光っていました。ボンネットのサイドに伸びるメッキモールや、フェンダーからなだらかに繋がるリアまわりの造形は、実用車でありながら芸術性をも感じさせる仕上がり。当時のライバル車が直線的な造形だったのに対し、プジョー・202のデザインは街中で明らかに“浮いて”いました。けれどそれは決して悪目立ちではなく、むしろ一目置かれる存在として、人々の記憶に残る存在感を放っていたのです。
さらに注目すべきは、そのデザインがただの“見た目勝負”で終わらなかったこと。小排気量・低出力の202にとって、いかに空気抵抗を減らして走るかは性能に直結する重要なテーマでした。軽量なボディと相まって、最高速100km/hというスペックを実現したのも、まさにこのデザインの恩恵だったと言えるでしょう。見た目の美しさと実用性が両立した、まさに時代を先取りした1台だったのです。
フロントグリルに込めたアイデンティティ:隠されたヘッドライトの意味
プジョー・202を一目見て「おや?」と思うのは、その独特なフロントフェイス。そう、ヘッドライトがグリルの中に埋め込まれているのです。これ、実は当時としては非常に珍しいスタイルで、視覚的にも技術的にもプジョーの独自性を強く表しています。一般的にはフェンダーの外側やボンネット上に配置されるライトを、あえてグリル内に隠すように配置したことで、よりクリーンで空力的なデザインが実現されました。
この設計には“見た目重視”だけではない意味がありました。プジョーはこの配置を通じて、202というモデルに一種のブランドアイデンティティを刻み込もうとしていたのです。1930年代の車は、どれも似たような箱型の顔つきになりがちでしたが、プジョー・202はその潮流に逆らって、まるで動物の顔のような「表情」をフロントに与えました。丸目のヘッドライトがグリルの奥でにっこりと笑っているようにも見え、結果としてどこか親しみやすく、しかし他にはない独特な存在感を放つデザインになったのです。
ただし、この配置は見た目以上に実用面でのチャレンジでもありました。グリルに覆われたヘッドライトは、当時の素材や光量ではやや暗くなりがちで、夜間走行時の視認性に課題を残していたとも言われています。しかしそれでもなお、このスタイルが後年まで語り継がれることになったのは、それだけ202の“顔”が印象的だった証拠。今でもクラシックカーファンの間では「フロントマスクが最高にかわいい」と評されることもあり、ヴィンテージ車好きの心をがっちりつかんで離しません。
戦争を挟んだ命運:再び走り出したプジョー202
1938年に華々しく登場したプジョー・202でしたが、その未来は決して順風満帆ではありませんでした。翌年には第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパ中が混乱の渦へ。1940年にドイツ軍がフランスへ侵攻すると、多くの工場は接収され、プジョーのソショー工場も例外ではありませんでした。202の生産は中断を余儀なくされ、その美しい流線型はわずか数年で姿を消してしまいます。あまりにも突然の終幕でした。
しかし、この物語にはもうひとつの章があります。1945年、戦争が終結すると、プジョーはただちに立ち上がります。ボロボロになった工場を再建し、いち早く民間向け自動車の生産再開にこぎつけたのです。そして復活の象徴として選ばれたのが、あの202でした。これは単なる生産再開ではなく、「フランスはまた走り出せる」という希望のメッセージでもありました。実際に1946年には改良版の202が登場し、内外装に手が加えられつつも、あの愛らしいデザインはそのまま生き続けました。
戦後の202はフランスの道を再び彩ることになります。庶民にとっては移動の足であり、復興を象徴する存在でもありました。その後継モデルである203へとバトンタッチされるまでの間、202は「忘れられないクルマ」として多くの人々の記憶に残ることになります。戦争によって失われ、しかし復活した202。そのエピソードは、単なる自動車の歴史にとどまらず、時代の変化と人々の希望を映し出す物語でもあるのです。
まとめ
プジョー・202は、単なるクラシックカーという枠を超えた存在です。1930年代の末に登場したとは思えないほどの流麗なデザイン、そして大胆にもフロントグリルに収められたヘッドライトという個性は、まさに時代の先を行くものでした。そして何より、第二次世界大戦という激動の時代を挟んで、戦後のフランスで再び人々の生活に寄り添うクルマとして復活したというその背景には、乗り物としての魅力以上の感動があります。
戦前から戦後へ、ただスペックを競うのではなく、“誰かのための移動手段”として役割を果たし続けたプジョー・202。その姿勢は、今なおプジョーの精神に受け継がれているといっても過言ではありません。流線型のフォルムとフレンドリーなフロントフェイスは、どこか「人間らしさ」を感じさせる温かさを宿していました。
クラシックカーとして見るだけでなく、社会の移り変わりや人々の暮らしにどのように関わってきたのかという視点で捉えると、202はきっと今までよりもずっと魅力的に映るはずです。ノスタルジーをまといながら、未来を見ていたクルマ。そんな一台が、かつてフランスを走っていたのです。