裕隆・飛羚101 諸元データ
・販売時期:1986年10月~1995年ごろ
・全長×全幅×全高:4455mm × 1680mm × 1375mm(1.6Lモデル)、1380mm(1.8Lモデル)
・ホイールベース:2470mm
・車両重量:1050kg(1.6L) / 1080kg(1.8L)
・ボディタイプ:5ドアセダン / 5ドアファストバック
・駆動方式:前輪駆動(FF)
・エンジン型式:CA16S型(1.6L SOHC)、CA18N型(1.8L SOHC)
・排気量:1597cc / 1809cc
・最高出力:88ps(1.6L) / 97ps(1.8L)
・最大トルク:13.3kgm(1.6L)/ 15.0kgm(1.8L)
・トランスミッション:3速AT / 4速MT / 5速MT
・サスペンション:前:ストラット式 / 後:トーションビーム式
・ブレーキ:前:ディスク / 後:ドラム
・タイヤサイズ:185/70R13
・最高速度:公称約165km/h(1.8Lモデル)
・燃料タンク:50L
・燃費(概算):約10〜12km/L
・価格(発売当時):おおよそ45万〜50万台湾ドル
・特徴:
- 台湾初の国産自主開発車
- 日産スタンザ(T11型)ベース
- 高級グレードにはHUD(ヘッドアップディスプレイ)搭載
台湾が世界に誇る初の国産乗用車──それが「裕隆・飛羚101(フェイリン ワンオーワン)」です。
1980年代、台湾の経済は高度成長期に突入し、自動車市場も急速に拡大していました。そんな中、台湾独自の技術で生み出された国産車は、国民の大きな期待と夢を背負ってデビューしました。
飛羚101は、当時日本の日産スタンザ(T11型)をベースにしながらも、外観や内装に台湾独自の工夫を凝らし、「台湾で設計・台湾で生産する」という誇りを体現した存在でした。
発表からわずか数カ月で大きな話題を呼び、初回ロットは即完売。台湾自動車史に鮮烈な一歩を刻みました。
しかし、期待の高さとは裏腹に、現実は決して順風満帆ではなかったのです。製造品質の問題、アフターサービスの課題、そして国際競争の波──飛羚101の物語は、輝かしいだけではない台湾自動車産業の苦闘の歴史でもあります。
今回の記事では、そんな飛羚101の開発背景から、日産スタンザとの関係、そして短命に終わった理由と未来への遺産まで、台湾現地の情報をもとに分かりやすくご紹介していきます。
読み終わった頃にはきっと、あなたも飛羚101がちょっと愛おしく思えてくるはずですよ。
台湾初の国産車「飛羚101」誕生の背景
1980年代初頭、台湾の自動車市場は活況を呈していました。とはいえ、市場に出回っていたほとんどのクルマは、海外ブランド──特に日本車でした。そんな中で台湾政府は、国内産業の強化と技術自立を目指し、「自国開発による自動車の製造」を後押しする政策を打ち出します。この流れに応えたのが、1950年代から日産車の組立を手がけていた**裕隆汽車(ユーロン)**でした。
裕隆は、1981年に「裕隆汽車工程中心(Yulon Engineering Center)」を設立し、完全な自主開発車のプロジェクトをスタートします。しかし、ゼロから自動車を作るには巨大な資金と技術力が必要です。そこで採用された戦略が、「信頼性ある既存技術をベースに、台湾独自のデザインと改良を加える」という手法でした。これにより選ばれたのが、当時日本で販売されていた**日産・スタンザ(T11型)**だったのです。
ベース車両のスタンザは、バイオレットの後継モデルとして開発された中型セダンで、信頼性とバランスに優れていました。裕隆はこれをベースに、台湾市場向けにリデザインを行い、細部の装備や仕様を大胆に変更。5年もの歳月と20億台湾ドル以上の資金を投じ、ついに1986年、台湾初の自主開発乗用車飛羚101が誕生したのです。
名前に込められた「飛羚(フェイリン)」とは、俊敏でしなやかな動物であるレイヨウ(羚羊)を意味し、台湾経済の飛躍と未来への躍動感を象徴するものとされました。
発売当初、台湾中のメディアはこぞって「国産技術の結晶」と称賛し、多くの人々が「台湾人の車」という新たな夢に胸を膨らませたのです。
飛羚101の開発裏話と日産スタンザとの関係
飛羚101は、表向きは「台湾初の自主開発車」として華々しくデビューしましたが、その舞台裏には、日産スタンザ(T11型)との深い関係がありました。裕隆汽車は完全なゼロベース開発を避け、信頼できる基盤技術を持つ日産スタンザをベースに選定。これは、開発期間とコストを大幅に削減するための合理的な判断でもありました。
具体的には、エンジンやシャシーといった走行性能の核となる部分は、スタンザのものをほぼそのまま採用しています。搭載されたエンジンは、日産が当時誇ったCAシリーズ──1.6LのCA16S型と、1.8LのCA18N型。どちらも耐久性と扱いやすさに優れ、台湾市場でも高い評価を得ていました。また、前輪駆動レイアウト(FF)もスタンザ譲りで、当時の市街地走行に適した設計でした。
しかし、飛羚101は単なるスタンザのコピーではありませんでした。裕隆独自のデザインチームによって、外観やインテリアは大幅に手が加えられています。たとえば、ヘッドライト形状やフロントグリル、ボディラインは台湾の気候や道路事情に合わせてアレンジされ、内装も台湾人ユーザーの嗜好にマッチするよう豪華さを意識して仕立て直されました。さらに、上位グレードには当時としては非常に先進的なHUD(ヘッドアップディスプレイ)まで装備され、国内の技術力をアピールする象徴となったのです。
ただし、開発過程は決して順調ではありませんでした。台湾初の国産車であるがゆえに、設計・生産・品質管理のあらゆる段階で試行錯誤が繰り返され、部品の現地調達率を高める一方で、仕上がりのバラつきや初期トラブルも発生しました。それでも、「台湾人の手で台湾人のために作る車」という情熱だけは、飛羚101を唯一無二の存在へと押し上げたのです。
短命に終わった理由と飛羚101が残したレガシー
飛羚101は、発売当初こそ「台湾人の夢を乗せた車」として脚光を浴びました。しかし、その栄光は長く続きませんでした。デビュー直後の初回ロット5000台は瞬く間に完売したものの、その後の販売は次第に失速。最終的な累計販売台数はわずか16,653台にとどまり、商業的には大きな成功とは言えない結果となってしまったのです。
その最大の理由は、やはり品質面の問題にありました。急速な国産化と大量生産への移行に対応しきれず、組み立て精度にムラが生じたり、内装パーツの劣化が早かったりと、ユーザーからの不満が噴出しました。また、台湾市場ではすでにトヨタやホンダ、三菱といった日本車ブランドの信頼性が根強く、消費者は「どうせ買うなら確実な日本車を」と考える傾向が強かったことも、飛羚101の販売に影を落としました。
さらに、当時は台湾市場の開放政策が進み、欧米車やその他の海外ブランド車の流入も加速していました。こうした激化する競争環境の中で、ブランド力が弱かった飛羚101は次第に存在感を失っていったのです。
そして追い打ちをかけたのが、裕隆と日産との関係悪化。もともと日産車を組み立てることで成り立っていた裕隆にとって、日産との協力関係は死活問題でした。しかし飛羚101を自主開発する過程で、日産との緊張関係が高まり、後のビジネス展開にも暗い影を落としました。
とはいえ、飛羚101が台湾自動車産業にもたらした意義は決して小さくありません。
それまで「外国ブランド頼み」だった台湾に、自ら企画・設計し、生産できる能力があることを証明したのです。後に裕隆は、これを糧に更なる技術蓄積を進め、現代に続く台湾車産業の礎を築きました。飛羚101は、たとえ市場で短命だったとしても、**台湾自動車産業にとっての「自立の第一歩」**という歴史的な役割を果たしたのです。
今でも台湾のクルマ好きたちの間では、飛羚101は一種の「伝説の存在」として語り継がれています。見かけることは少なくなりましたが、当時を知る人にとっては、飛羚101こそが「台湾の夢を乗せたクルマ」だったのです。
まとめ
裕隆・飛羚101は、単なるクルマ以上の存在でした。
1986年、台湾初の自主開発車としてデビューした飛羚101は、多くの台湾人に「自分たちの力で夢を形にできる」という希望を与えました。日産スタンザ(T11型)をベースにしながらも、外観や装備には台湾独自の工夫が凝らされ、確かな「台湾車」としてのアイデンティティを築こうと挑戦していました。
しかし、急ぎ足の開発と品質管理の課題、海外ブランドとの厳しい競争環境、さらに販売網やアフターサービス体制の不備など、現実は甘くありませんでした。
その結果、飛羚101は市場で長く生き残ることはできなかったのです。
それでも、飛羚101が残したものは決して小さくありません。
「台湾にもクルマを作る力がある」という誇りを生み出し、台湾自動車産業の基礎技術を押し上げたこと。その影響は、後の裕隆と中国メーカーとの提携や、台湾のモビリティ産業全体の成長へとつながっていきます。
華々しく咲き、短く散った飛羚101。
今振り返れば、それはまるで台湾経済成長期を象徴するような、ひたむきで熱い時代の証だったのかもしれません。