いすゞ・フローリアン(1967年式 1600デラックス)諸元データ
・販売時期:1967年〜1983年
・全長×全幅×全高:4285mm × 1610mm × 1425mm
・ホイールベース:2500mm
・車両重量:1045kg
・ボディタイプ:4ドアセダン
・駆動方式:FR(後輪駆動)
・エンジン型式:G161
・排気量:1584cc
・最高出力:90ps(66kW)/ 5400rpm
・最大トルク:13.0kgm(127Nm)/ 4000rpm
・トランスミッション:4速MT(後期にはATも設定)
・サスペンション:前:ダブルウィッシュボーン / 後:リーフリジッド
・ブレーキ:前:ディスク / 後:ドラム
・タイヤサイズ:6.45-13-4PR(初期型)
・最高速度:160km/h(公称値)
・燃料タンク:50L
・燃費(推定):約10〜12km/L
・価格:約66万円(当時)
・特徴:
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ジウジアーロによるモダンなデザイン
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ベレルの後継として開発された中型セダン
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長寿モデルとして16年間生産
1960年代の日本は、高度経済成長の真っただ中。国民の暮らしにも余裕が生まれ、"マイカー"を持つことが一種のステータスになりつつありました。そんな中、各メーカーはこぞって中型セダンのラインアップを強化しはじめます。そして1967年、いすゞが放った勝負の一台――それが「フローリアン」でした。
前身の「ベレル」は質実剛健な作りではありましたが、どこか古臭く重厚なイメージが強く、競合に対抗するには少々力不足。そこでいすゞは、デザインの近代化に着手し、なんと当時まだ20代だったイタリア人デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロの力を借ります。この若き巨匠が描いたボディラインは、日本車離れした洗練されたシルエットとして注目を浴びました。
そしてこのフローリアン、実は一度もモデルチェンジを受けずに16年もの間販売され続けたという珍しい存在でもあります。その間、ロータリーエンジン搭載の夢を見たり、いすゞ最後のセダンとして幕を閉じたりと、なかなかにドラマチックな人生を送ったのです。今回は、そんなフローリアンの魅力を、デザイン・技術・歴史の3つの視点から掘り下げてご紹介します。
ジウジアーロが描いた国産セダン――欧州テイストをまとうフローリアンのデザイン
1960年代後半、日本車のデザインといえばまだ「実用性重視」や「質実剛健」といった言葉がよく似合う時代でした。そんな中に颯爽と現れたのが、いすゞ・フローリアン。登場からしてただ者ではありません。なにせそのスタイリングを手がけたのは、あのジョルジェット・ジウジアーロ。のちにフォルクスワーゲン・ゴルフやデロリアンDMC-12など数々の名車を生み出す天才デザイナーです。
当時ジウジアーロは、カロッツェリア・ギアに在籍しており、若干30歳にも満たない若き才能でした。いすゞは「世界に通用する日本車」を目指し、デザイン面での革新を求めて彼に依頼。こうして完成したフローリアンは、直線を基調としたシンプルながらも上質感のあるボディラインを特徴とし、まるでヨーロッパ車のような洗練された雰囲気をまとって登場しました。
とくにサイドビューの端正なウエストライン、すっきりとしたグリルまわりの造形、そして無駄を排したリアエンドの処理は、まさにイタリア流の“控えめな美しさ”。日本市場においては少々地味に映ったかもしれませんが、逆に「分かる人には分かる」デザインとして、静かに愛された存在でもありました。こうしたスタイルは後に「いすゞ=知的で都会的な車」というイメージへとつながっていきます。
デザインに限らず、内装にもヨーロッパ的センスがちりばめられており、シンプルで機能的なダッシュボードや、モケット仕上げのシートなどは上級セダンの風格を感じさせました。結果として、派手さはないけれどどこか育ちの良さを感じさせるセダンとして、玄人好みの1台となったのです。
幻のロータリーエンジン搭載計画――フローリアンRE試作車の存在
フローリアンが“ただのセダン”ではなかった証拠が、ある幻のプロジェクトにあります。それが、「フローリアンRE」。そう、ロータリーエンジンを積んだ試作車の存在です。実は1960年代後半、いすゞもまたマツダと同様に夢のロータリーエンジン搭載車を目指していたのです。
1968年、いすゞはマツダ(当時は東洋工業)からロータリーエンジンのライセンス供与を受ける契約を締結しました。これはいすゞに限らず、当時多くのメーカーが注目していた動きで、三菱や日産もロータリー技術の可能性を模索していた時代です。フローリアンREはその成果の一つで、G型シャシーをベースに、マツダの10A型ロータリーエンジンを搭載するよう開発が進められていたといいます。
試作車は数台存在していたとされ、実際にメディア関係者が試乗した記録も残っています。評価は上々で、軽快な走りとスムーズな加速感が印象的だったとのこと。なにより、フローリアンのヨーロピアンな外観にロータリーという新技術が加われば、それこそ「日本のシトロエン」とも呼べるような個性を放っていたことでしょう。
しかしながら、このREプロジェクトは量産化直前で頓挫します。理由は開発コストの問題と、ロータリーの耐久性・燃費・排ガス問題への懸念でした。ちょうど世界的に排ガス規制が強化されるタイミングと重なったこともあり、経営資源の集中を余儀なくされたいすゞは、この野心的なプロジェクトを静かに棚上げすることを決断します。
もしフローリアンREが市販されていたら――そんな“もしも”を考えると、ロータリーの歴史も少し違ったものになっていたかもしれません。いすゞというメーカーの持つ技術志向と、控えめながらも攻めたチャレンジ精神を感じさせる、隠れたエピソードです。
フローリアンからアスカへ――フローリアンが果たした最後の使命とは
1967年のデビューから実に16年。フローリアンは一度のフルモデルチェンジもなく、マイナーチェンジと装備の小改良だけで1983年まで生き抜いたロングセラーモデルでした。いま振り返ると、それはちょっと信じられない話にも思えますが、当時のいすゞにとってフローリアンは「孤高のセダン」として、なくてはならない存在だったのです。
いすゞは1970年代後半から徐々に商用車とSUVに経営の軸足を移していきます。そんな中でもフローリアンは、法人需要や官公庁、さらには保守的な顧客層を相手に、地味ながら安定した支持を集め続けていました。1977年にはフェイスリフトを受け、「ニュー・フローリアン」としてイメージを刷新。角型ヘッドライトと黒基調のフロントグリルによって、少しだけ現代的な顔つきになりました。
しかし時代はすでに、FFレイアウトのコンパクトなセダンが主流となりつつありました。そこにトヨタや日産のような巨大メーカーと渡り合うだけの開発力を維持するのは、いすゞにとってあまりに厳しい現実。結果として、1981年にはフローリアンをベースにしたディーゼルタクシー専用モデル「ジェミニ・フローリアン」を登場させたりもしましたが、それも延命策にすぎませんでした。
そして1983年、ついにフローリアンはその歴史に幕を下ろします。後継車は「アスカ」。とはいえこのアスカ、じつはいすゞ単独開発ではなく、GMとの提携によって誕生した“世界戦略車”、すなわちオペル・アスコナをベースにしたモデルでした。フローリアンが最後に果たした使命は、このグローバルな変革の橋渡し役だったのかもしれません。
華々しい存在ではなかったけれど、技術に正直で、地道な進化を続けたセダン――それがいすゞ・フローリアンでした。そしてその“物静かな終わり方”もまた、いすゞというメーカーの美学を象徴していたように思えます。
まとめ
いすゞ・フローリアンという車は、派手な広告もなければ、爆発的なヒット作でもありませんでした。それでも16年もの間、じっくりと改良を重ねながら生き残り続けたのは、ひとえにその誠実なつくりと芯の通った個性があったからでしょう。
若き日のジウジアーロが描いたボディラインは、今見てもどこか凛とした美しさを保ち、ロータリーエンジンを夢見た技術者たちの試行錯誤は、いすゞの探求心を物語ります。そしてアスカへとバトンを渡すラストランも、控えめながら印象深いものでした。
フローリアンは「記憶に残る名車」ではなく、「思い出の片隅に静かに寄り添ってくれる一台」なのかもしれません。けれども、その静けさの奥には、日本車が世界へ羽ばたこうとしていた時代の情熱が、確かに息づいているのです。