ヒュンダイ・ポニークーペ・コンセプト 諸元データ(1974年 トリノモーターショー出展モデル)
・販売時期:1974年(市販はされず)
・全長×全幅×全高:4,080mm × 1,560mm × 1,210mm
・ホイールベース:2,340mm
・車両重量:約820kg
・ボディタイプ:2ドアクーペ
・駆動方式:FR(後輪駆動)
・エンジン型式:直列4気筒(三菱製)
・排気量:1,238cc
・最高出力:約82ps(60kW)/6,000rpm
・最大トルク:10.3kgm(101Nm)/4,000rpm
・トランスミッション:4速MT
・サスペンション:前:マクファーソンストラット / 後:リジッドアクスル・リーフリジッド
・ブレーキ:前:ディスク / 後:ドラム
・タイヤサイズ:不明(当時のポニーと同様であれば13インチ)
・最高速度:約170km/h(想定値)
・燃料タンク:不明
・燃費(参考値):約12~14km/L(推定)
・価格:非売品
・特徴:
- 韓国初の本格スポーツカーを目指したコンセプトカー
- ジウジアーロによる直線的で未来的なデザイン
- ヒュンダイのブランド哲学に影響を与えた象徴的存在
今では世界中に高性能EVやプレミアムSUVを展開するグローバルブランドへと成長したヒュンダイ(Hyundai)。ですが、その始まりを知っている人は意外と少ないかもしれません。実は、そんなヒュンダイが自動車産業への本格参入を果たした1970年代に、いきなり“スポーツカー”を夢見ていたことをご存じでしょうか?
それが1974年に登場したポニークーペ・コンセプト。韓国初の量産車「ポニー」の派生モデルとして開発されたこの1台は、ジウジアーロがデザインを手がけたことで国際的にも注目を集め、近未来的なスタイリングが一部のファンの心をつかみました。しかし残念ながら、この車が市販されることはありませんでした。まさに“幻のスポーツカー”と呼ぶにふさわしい1台です。
本記事では、このポニークーペがどのような経緯で生まれ、どんな魅力を持ち、なぜ量産されなかったのか。その背景にあるヒュンダイの夢と挑戦の物語を、ひもといていきましょう。
韓国初のスポーツカーを夢見た幻:ポニークーペ・コンセプトの誕生秘話
1970年代初頭、韓国は自動車産業においてまさに黎明期にありました。政府は国産車の開発を強く推進し、当時まだ大きな実績のなかったヒュンダイはその流れのなかで「韓国で最初の量産車をつくる」という国家的プロジェクトに名乗りを上げます。こうして誕生したのが、のちに大ヒットとなるセダン「ポニー」でした。そしてこのポニーの開発と並行して、ヒュンダイはもうひとつの“夢”に手を伸ばします。それが、スポーツクーペの構想だったのです。
ヒュンダイはポニー開発にあたり、デザインおよび設計を世界的デザインスタジオ「イタルデザイン」に依頼します。代表を務めていたのは、あのジョルジェット・ジウジアーロ。ジウジアーロといえば、のちにフォルクスワーゲン・ゴルフやデロリアンDMC-12などを手がけるイタリアンデザイン界の巨匠です。そんな彼の手によって、セダンのポニーに加えてスポーツモデルのスケッチも描かれました。それが、のちに「ポニークーペ・コンセプト」として実車化されることになります。
1974年、イタリア・トリノモーターショーの会場に突如現れたこのクーペは、直線的で未来的なスタイル、軽量なボディにFRレイアウト、そして価格を抑えた“庶民のスポーツカー”という位置づけで、関係者や報道陣から一定の注目を集めました。これはただのショーカーではなく、ヒュンダイが本気で「韓国にもこういうクルマを作れるんだ」とアピールする、野心と希望が詰まった1台だったのです。
しかしながら、この華々しいデビューとは裏腹に、ポニークーペはそのまま市販されることはありませんでした。けれど、この幻のスポーツカーがヒュンダイに与えた影響は決して小さくなかったのです。
ジウジアーロが描いた未来:ポニークーペのデザインと世界的影響
ポニークーペが語り継がれる最大の理由――それはやはり、ジョルジェット・ジウジアーロが手がけた独創的なデザインにあります。1970年代初頭、まだ「曲線」が主流だった自動車デザインの世界において、ポニークーペは大胆な直線基調のシルエットを持って登場しました。エッジの効いたフロントマスク、低く構えたノーズ、そしてファストバックのようなリアスタイル。これが1974年にお披露目されたクルマとはにわかに信じがたいほど、未来的な造形だったのです。
このスタイルはのちの自動車デザインにも大きな影響を与えます。特に有名なのが1981年に登場したデロリアン DMC-12。そう、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でおなじみのあの車です。実はデロリアンのデザインもジウジアーロが手がけており、角ばったボディやスラントしたフロントフェイスなど、ポニークーペの影響を感じさせる要素が随所に見られます。言ってしまえば、ポニークーペは“バック・トゥ・ザ・フューチャー”のプロトタイプだったのかもしれません。
また、当時のヒュンダイにとっても、ジウジアーロとのコラボレーションは大きな意味を持ちました。韓国ではまだ「自動車=輸入品」というイメージが根強かった時代。そんななかで、世界的デザイナーと組んだことで、ヒュンダイは一気に国際的なイメージの形成に成功します。これは「自分たちも世界と渡り合える」という自信のきっかけにもなり、ポニー以降の開発姿勢やグローバル展開への布石となったのです。
ジウジアーロの手によって生まれたポニークーペは、たとえ市販されなかったとしても、自動車デザインの一端に確かな爪痕を残した1台でした。そしてそのデザイン精神は、後のヒュンダイが手がけるクーペやEVモデルにも、じんわりと受け継がれていくことになります。
なぜ市販されなかったのか?幻となった理由に迫る
一見すれば、市場でも注目を浴び、デザインも完成度が高かったポニークーペ。ではなぜこのクルマは“幻”となり、市販化されなかったのでしょうか?その答えは、当時のヒュンダイの置かれていた状況にあります。
まず最大の理由は、量産体制の未整備です。ヒュンダイは当時、自社で初めて生産する量産車「ポニー」の開発と製造で手一杯でした。製造技術も経験も乏しい中で、2ドアクーペのような台数が見込めない車種にまで手を広げる余裕はなかったのです。資金的にも、コストのかかるボディラインや複雑な成型技術を求められるポニークーペは“夢の車”でしかなかったというのが正直なところです。
さらに、マーケットの現実も重くのしかかりました。韓国国内はもちろん、アジア全体でもまだ「クーペ」や「スポーツカー」というジャンルが十分に育っておらず、仮に生産したとしても採算が取れないという判断が下されたとされています。量産車のポニーは「安くて丈夫なファミリーカー」としてニーズが明確でしたが、ポニークーペにはその“実用性”が欠けていたのです。
そして最後に、技術的な制約も見逃せません。ポニークーペに搭載されたエンジンや足回りは、基本的にポニーと同じもので、当時は三菱自動車の技術供与を受けていました。つまり、パワートレイン自体が“スポーツカー”と呼ぶには非力であり、本格的な走りを追求するには、技術面でも壁が高かったのです。
こうした複合的な事情により、ポニークーペは市販化を見送られ、そのままヒュンダイ社内の記憶の中へと封印されることになります。けれど、この「出せなかったスポーツカー」の存在が、後年のヒュンダイにとって強い原体験として残ったことは間違いありません。のちにジェネシスクーペやアイオニック5などの個性的なモデルが誕生していく背景には、このポニークーペという未完の夢が息づいているのです。