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ヒュンダイ・コルティナ:都市の憧れから国民の足へ、韓国を変えたセダン

ヒュンダイ・コルティナ(第3世代・Mk3ベース)諸元データ

・販売時期:1974年〜1979年(韓国生産)
・全長×全幅×全高:4282mm × 1651mm × 1360mm
ホイールベース:2560mm
・車両重量:約980kg
・ボディタイプ:4ドアセダン(2ドアも一部あり)
・駆動方式:FR(後輪駆動)
・エンジン型式:1.3L/1.6L/2.0L 直列4気筒(フォード製)
・排気量:1298cc〜1993cc
・最高出力:54〜98ps(40〜72kW)/5000rpm
・最大トルク:10.0〜15.8kgm(98〜155Nm)/3500rpm
トランスミッション:4速MT/一部3速AT
・サスペンション:前:マクファーソンストラット / 後:リーフリジッド
・ブレーキ:前:ディスク / 後:ドラム
・タイヤサイズ:155SR13
・最高速度:約140km/h(2.0Lモデル)
・燃料タンク:45L
・燃費(推定):約10〜12km/L
・価格:約110万ウォン〜(当時)
・特徴:
 - フォードとの技術提携で生産された韓国初の“本格セダン”
 - 韓国国内での大量生産の礎を築いたモデル
 - 外観・性能ともに当時としては洗練された欧州スタイル

 

現在では世界有数の自動車メーカーに成長したヒュンダイ(Hyundai)。しかしその道のりは、決して最初から順風満帆だったわけではありません。造船業や建設業からスタートしたヒュンダイが、自動車産業に本格的に参入したのは1970年代のこと。当時の韓国は、まだ自国開発のクルマすら存在しない状況でした。そんな中で登場したのが、英国フォード社との提携によりライセンス生産された「ヒュンダイ・コルティナ」でした。

このコルティナ、見た目は完全に欧州車。でも製造は釜山の工場、つまり韓国産。まさに「輸入車でもなく国産車でもない、ちょっと不思議な存在」だったのです。けれど、この車は当時の韓国にとってまさしく**“希望のセダン”**でした。乗用車がほとんど走っていなかった時代に、しっかり走って止まる、家族を乗せて遠出できる…そんな“当たり前”を実現した、国民の憧れの存在だったのです。

今回は、そんなヒュンダイ・コルティナの背景や当時の評価、そしてその意外な功績に焦点を当てながら、「何がよかったのか、そして何が課題だったのか?」という視点も交えて掘り下げていきます。韓国自動車史の原点ともいえるこの1台、一緒にタイムスリップしてみましょう!

 

フォードとの提携から始まった、ヒュンダイの第一歩

1970年代初頭の韓国は、自動車産業の立ち上げに国を挙げて取り組み始めた時期でした。自動車を輸入するばかりで、自国で作る技術や体制は整っておらず、まさにゼロからのスタート。そんななか、ヒュンダイがパートナーに選んだのが英国のフォードでした。両社は1973年に提携契約を結び、フォードの大衆車「コルティナ」を韓国でノックダウン生産することになったのです。

この提携によって生まれた「ヒュンダイ・コルティナ」は、見た目も中身もほぼフォードのまま。エンジン、シャーシ、内装に至るまで設計は英国由来で、釜山の工場ではその部品を組み立てるという形式でした。それでも、初めて韓国国内のラインで量産される乗用車としての意義は大きく、ここからヒュンダイの“車づくり”が本格的に始まりました。

コルティナは、当時の韓国の道路に登場したなかでは珍しくスタイリッシュなセダンで、モダンなデザインや快適な乗り心地が都市部のドライバーに好印象を与えました。特に1.6Lや2.0Lといった排気量の大きなモデルは、動力性能にも余裕があり、タクシーや官公庁車両としても広く使われていました。一方で、部品の多くを輸入に頼っていたため、供給の安定性やコストの問題は避けられず、生産現場ではその対応に追われることもしばしば。さらに、韓国の道路環境がまだ未整備な地域では、欧州設計の足まわりが馴染みにくい場面も見られました。

それでもこのコルティナの生産経験は、ヒュンダイにとって多くの“学び”をもたらしました。工場の稼働から組立技術、品質管理、人材育成まで、後の完全自社開発車「ポニー」へと続く重要なステップだったことは間違いありません。ヒュンダイが“ただの組立会社”から、“ものづくり企業”へと変わっていく、その最初のページをめくったのが、このコルティナだったのです。

 

コルティナが韓国に与えたインパク

1970年代半ば、韓国の道路を走る車の多くは商用トラックやバスで、一般家庭に自家用車がある風景はまだ珍しいものでした。そんな時代に、ヒュンダイ・コルティナは人々の前に現れます。街なかで見かけるその姿は、当時の韓国にとって**「未来の暮らし」を映す鏡**のような存在でした。

コルティナが放った最大の魅力は、見た目の洗練さでした。欧州車らしい直線基調のボディは、角ばったラインが時代に合っていて、都会的で洗練された印象を与えました。内装も、当時の韓国車とは一線を画す質感を備えており、シートの座り心地やインパネ周りのデザインにも“ちょっとした高級感”が漂っていました。家族4人が余裕を持って乗れる室内空間も、日常使いから長距離移動まで幅広く応えてくれるものでした。

当時としては力強いエンジンと安定した走行性能を備えていたこともあり、コルティナは公用車やタクシーとしても多く採用されました。特に都市部では“きちんと走る”“きちんと止まる”乗用車として信頼され、商用利用と一般家庭の橋渡し的な存在として定着していきます。車社会の黎明期にあって、コルティナは人々に「車のある生活」の現実味を与えてくれる貴重な選択肢でした。

とはいえ、誰もが手軽に手に入れられるクルマではなかったのも事実です。当時の物価水準からすると、コルティナの価格は中間層にとっても大きな出費であり、クルマを買うということ自体が人生の大きな決断でした。また、地方の未舗装路では走行時の振動が気になることもあり、使用環境によって満足度にばらつきがあったのも確かです。

それでも、コルティナが当時の韓国社会に与えた“心理的インパクト”はとても大きなものでした。「外国車のようなデザインのクルマが、国内で作られている」。その事実だけで、多くの人の価値観に揺さぶりを与え、自動車という存在が“憧れ”から“現実”へと一歩近づいた瞬間だったのです。

 

ヒュンダイがコルティナから得たもの、そして次に進んだ道

ヒュンダイにとって、コルティナの生産は単なる技術提携以上の意味を持っていました。フォードから設計図とパーツが届き、それを組み立てるだけ…と思われがちですが、実際にはそのプロセスを通じて、ヒュンダイの現場には大きな“変化”と“気づき”が芽生えていきました。

ひとつは、製造現場における工程管理や品質基準に対する意識の変化です。フォードの車をそのまま再現するには、寸分の狂いも許されない精度と整った作業手順が求められました。部品の取り扱い、溶接、塗装、検査――すべての工程において“本物”のものづくりを体験することで、ヒュンダイのスタッフたちは「車をつくるとはどういうことか」を現場で学んでいったのです。

また、顧客の声を聞くなかで、韓国の気候や道路環境、生活スタイルに合った車が求められていることにも気づき始めました。コルティナは欧州設計ゆえに、韓国の冬の寒さや未舗装道路に完全にフィットしているとは言い難く、ユーザーからは改善要望も寄せられるようになります。つまり、「自分たちの国に合った車は、自分たちで作らなければならない」――そんな意識が社内に芽生えたのです。

そして、その思いを形にしたのが、1975年に登場するヒュンダイ初の自社開発車「ポニー」でした。デザインはイタリアの名門・ジウジアーロ、エンジンとシャシーは三菱から供給を受けたものでしたが、設計から量産に至るまでの主導権はヒュンダイ自身にありました。ポニーはコルティナとは異なり、まさに“韓国のためのクルマ”として登場し、国民車としての役割を果たしていきます。

つまり、コルティナの存在はヒュンダイにとって“過渡期の名脇役”だったと言えるでしょう。輸入に頼らず、でもまだ完全には自立できない時期において、自社の進むべき方向を明確にしてくれたのがこの1台でした。フォードとの提携で得た経験と反省、そしてそれを糧にした次の一歩。ヒュンダイの歴史において、コルティナは忘れてはならない起点のひとつなのです。

 

韓国自動車産業の出発点、それがコルティナだった

ヒュンダイ・コルティナは、韓国自動車産業の歴史において間違いなく“はじまりの一台”でした。それは、ただのライセンス生産車ではなく、ヒュンダイが自らクルマづくりの現場に足を踏み入れたという事実そのものに価値があります。コルティナの生産を通じて、同社は技術を学び、人材を育て、ものづくりの姿勢そのものを体得していきました。

当時の韓国ではまだクルマが特別な存在だった時代。そんな中で街を走るコルティナは、まさに“時代の象徴”として多くの人の記憶に残っています。都市部ではスタイリッシュな乗用車として注目を集め、地方では家族の足として活躍し、そしてヒュンダイにとっては、未来を見据えるきっかけとなる1台でした。

いま、ヒュンダイは世界中でEVや高性能車を手がける巨大メーカーになりましたが、その礎には確かにコルティナがありました。完璧ではなかったかもしれませんが、だからこそ次に進むための原動力となった。コルティナを振り返ることは、ヒュンダイという企業がどれほどの道のりを歩んできたのかを知ることでもあります。そしてその軌跡は、今なお“クルマづくり”の原点として輝き続けているのです。