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アストンマーティン・シグネット:ジェームズ・ボンドの隣に停まるべきもう一台?

アストンマーティンシグネット 諸元データ(欧州仕様)

・販売時期:2011年~2013年
・全長×全幅×全高:3078mm × 1680mm × 1500mm
ホイールベース:2000mm
・車両重量:約980kg
・ボディタイプ:3ドアハッチバック
・駆動方式:FF(前輪駆動)
・エンジン型式:1NR-FE(トヨタ製)
・排気量:1329cc(1.3L)
・最高出力:98ps(72kW)/ 6000rpm
・最大トルク:12.5kgm(123Nm)/ 4400rpm
トランスミッションCVT(無段変速)または6速MT
・サスペンション:前:マクファーソンストラット / 後:トーションビーム
・ブレーキ:前:ベンチレーテッドディスク / 後:ドラム
・タイヤサイズ:175/60R16
・最高速度:170km/h前後(公称)
・燃料タンク:32L
・燃費(欧州複合モード):約18.9km/L
・価格:£30,000前後(日本円換算で当時約400~450万円)
・特徴:
 - トヨタ・iQベースの高級シティカー
 - 内装はフルレザー仕立てのハンドメイド
 - 排出ガス規制対策として誕生した限定車

 

高級車の代名詞といえば、やっぱりアストンマーティン。その名を聞くだけで、シルクのようなスーツに身を包んだ紳士がV12エンジンの唸りを背に駆け抜ける姿を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。そんなラグジュアリーの象徴が、まさかのコンパクトカーを世に送り出した——その名も「アストンマーティンシグネット」です。

全長わずか3メートルちょっと。見た目はどう見てもシティカー。でも、その中身にはブランドの矜持が詰め込まれていました。ハンドメイドで仕立てられたレザーシート、エンブレム一つ一つにまで宿るクラフトマンシップ。まるで、超高級スーツの仕立て屋がTシャツを本気で作ったような一台です。

しかしその一方で、この小さなアストンは決して多くの人に愛されたとは言えません。コンセプトはユニーク、仕上がりも上質、それでも市場は冷ややか。なぜアストンマーティンはこの挑戦に乗り出したのか?そしてなぜ、シグネットは短命に終わってしまったのか?そんな「ラグジュアリー×ミニマル」という極端なコンセプトの裏側に迫ってみましょう。

ラグジュアリーとコンパクトの融合:異色のシティカー誕生秘話

アストンマーティンシグネットの誕生は、多くのファンにとって「まさか!」の連続でした。なにしろ、トヨタの超コンパクトカー「iQ」をベースにして、アストンマーティンが“ラグジュアリーカー”に仕立てたというのですから。それは、まるで庶民派のおにぎりにキャビアをのせて「高級料理」と呼ぶような感覚にも思えるかもしれません。でも、この企画にはしっかりとした理由があったのです。

その理由とは、CO₂排出量に関するヨーロッパの厳しい規制への対応でした。2010年前後からEUでは、メーカー単位で販売するすべてのクルマの**「平均CO₂排出量」を一定以下に抑える**ことが義務付けられるようになりました。つまり、1台ごとではなく、「ラインナップ全体」でエコを実現しなければならなかったのです。

ここで問題になるのが、アストンマーティンのような高級スポーツカー専門メーカー。V8やV12エンジンを搭載したGTカーばかりの構成では、どうしても平均値が高くなってしまいます。そこで目をつけたのが、トヨタのiQという超コンパクト&低燃費な車でした。たとえば、年間1000台のハイパワー車を売っている中で、排出量が1/3程度のシグネットを同数投入すれば、平均値を大きく引き下げることができるわけです。

とはいえ、アストンマーティンはただの“排出量調整用マシン”としてこの車を作ったわけではありません。外装デザインから内装の仕立てまで、「アストンらしさ」を注ぎ込み、まったくの別物として仕立て直すことに全力を注ぎました。フロントマスクやバッジはもちろん専用設計、さらにはレザー張りの内装まで、まさに“小さなアストンマーティン”を目指したのです。

こうして生まれたシグネットは、単なるOEMモデルを超えた“挑戦”の一台でした。けれどこの挑戦が市場にどう受け入れられたのかは——次のトピックで明らかにしていきましょう。

細部に宿るプライド:シグネットの内装と仕立てのこだわり

アストンマーティンシグネットを語るうえで欠かせないのが、その“内装のこだわり”です。ベースとなったトヨタ・iQの車内は、コンパクトカーらしくシンプルで機能的なものですが、アストンマーティンが手を加えると、それが一転、まるで高級ラウンジのような空間に変貌します。

まず、座った瞬間にわかるのは、贅沢なフルレザーの仕立てアストンマーティンの熟練職人が手作業で縫い上げたレザーシートは、触れるだけでそのクオリティが伝わってきます。ダッシュボードからドアトリム、ステアリングホイールに至るまで、ありとあらゆる部分に上質な素材が惜しみなく使われており、「これ、本当にiQがベースなの!?」と疑いたくなるほどの完成度です。

さらに驚くのが、インテリアのカスタマイズの自由度です。外装カラーとインテリアのレザー色を組み合わせて、自分だけの一台に仕立てることが可能で、まるでオーダーメイドスーツを仕立てるかのような楽しさがありました。一部のオーナーは、鮮やかな赤革やクロームパーツを取り入れた個性的な仕様を選んでおり、そのあたりもまた“アストンマーティン流”の遊び心と言えるでしょう。

もちろん、快適装備も抜かりはありません。スマートキー、プレミアムオーディオ、シートヒーターなど、当時のコンパクトカーとしては異例の豪華装備が標準またはオプションで用意されていました。つまり、サイズこそミニマムでも、その中身はまさに**「アストンマーティンの血統」**を受け継いだ一台だったのです。

とはいえ、ここまでこだわった内装や上質な仕立てが、果たして市場にどのように受け入れられたかというと……それは次の章で少し現実的な話をしていくことになります。

残念ながら売れなかった理由:シグネットが抱えたジレンマ

アストンマーティンシグネットは、確かに挑戦的なモデルでした。環境規制を背景に、高級ブランドがあえてコンパクトカー市場に乗り込んだことは、ある意味で革新的とも言えます。しかし現実はというと——市場の反応は、あまりに冷ややかだったのです。

まず最大のネックとなったのが、その価格設定。当時の日本市場で約470万円、イギリスでは3万ポンド超という価格は、ベース車であるトヨタ・iQの実に2倍以上。いくら内装がハンドメイドで仕上げられていても、ボディの形状やプラットフォームにiQの面影が強く残っている限り、「これはアストンマーティンだ」と素直に納得するのは難しかったのかもしれません。「お金持ちがセカンドカーに選ぶにはちょっと地味」「アストンにしてはパワーがなさすぎる」といった声も多く、結局ターゲットがどこにあるのか分かりづらかったのです。

さらにもう一つの問題は、ブランドイメージとのギャップです。アストンマーティンと言えば、やはりジェームズ・ボンドの愛車や、長いボンネットに大排気量エンジンを積んだグランドツアラーを思い浮かべる人が大半。そこへ突然、リッターカーサイズのFFコンパクトが登場しても、「なぜ今これを…?」という戸惑いが先に立ってしまいました。

結果的に、当初年間数千台の販売を見込んでいたシグネットは、全世界での総販売台数が数百台にとどまるという厳しい結果に終わりました。2013年には生産終了となり、わずか2年という短命に。とはいえその希少性ゆえ、近年では**“プレミアムなコレクターズカー”として注目を集め始めている**のも面白いところ。オークションでは高値が付くこともあり、「シグネット、実は買っておくべきだったのでは?」という声もちらほら出てきています。

アストンマーティンの野心が詰まったこのミニ・マシンは、商業的には失敗だったかもしれませんが、自動車史における一つのユニークなチャレンジであったことは間違いありません。

まとめ

アストンマーティンシグネットは、ラグジュアリーブランドが直面した環境規制という現実と、ブランドの哲学をどう折り合いをつけるか——その答えの一つとして生まれた、非常にユニークな存在でした。トヨタ・iQという実績あるコンパクトカーをベースに、アストンマーティンが誇る職人技と美意識を注ぎ込んだこの一台は、まさに「小さな巨人」とも言える存在です。

内装の仕立てや装備の豪華さ、細部への徹底したこだわりは、通常のコンパクトカーとは次元の異なるものでした。けれどもそれだけでは、ラグジュアリーブランドとしての期待に応えるのは難しかったのかもしれません。高価格に見合うだけの「走り」や「オーラ」が求められた中で、シグネットはあまりに“静かすぎる挑戦”だったのです。

しかし、だからこそ面白い——今見直してみると、シグネットはその先を行っていたとも感じられます。電動化や都市型モビリティが加速する現代において、**「小さくて高級なクルマ」**というコンセプトは、むしろ時代に合っているとも言えるのです。商業的には成功しなかったとしても、その意義は決して小さくありません。アストンマーティンシグネットは、自動車の世界における“異端の美学”を体現した、記憶に残る一台でした。