たま電気自動車(E4S-47型)諸元データ
・販売時期:1947年〜1950年頃
・全長×全幅×全高:3210mm × 1300mm × 1600mm
・ホイールベース:2000mm
・車両重量:約1100kg
・駆動方式:後輪駆動(FR)
・エンジン型式:電動モーター(DC直流モーター)
・排気量:なし(電気自動車)
・最高出力:約4.5ps(3.3kW)
・最大トルク:非公開(トルク特性は当時の資料に乏しい)
・トランスミッション:2段変速(手動)
・サスペンション:前:横置きリーフスプリング / 後:縦置きリーフスプリング
・ブレーキ:機械式ドラムブレーキ
・タイヤサイズ:4.50-14
・最高速度:約35km/h
・燃料タンク:なし(鉛バッテリー搭載)
・燃費(航続距離):約65km
・価格:当時の価格で35万円(現在換算で約200〜300万円相当)
・特徴:
- 日本初の市販電気自動車
- 航続距離60kmを達成
- GHQからの要請で電気自動車の試作が進められた
電気自動車といえば、近年話題の「日産リーフ」や「テスラ」を思い浮かべる人が多いかもしれません。でも実は、もっと昔、日本がまだ戦後の混乱から立ち直ろうとしていた頃にも、電気で走るクルマが存在していたのです。その名は「たま電気自動車」。
この小さなクルマ、ただのレトロカーではありません。現代のEVブームのはるか前に、ガソリン不足という切実な課題に立ち向かい、生まれたクルマでした。作ったのは、戦時中に航空機を開発していた技術者たち。モノづくりへの情熱を失わず、生活の足をつくるために立ち上がった彼らの姿は、今の私たちにも勇気を与えてくれます。
今回のブログでは、「たま電気自動車」がどうして生まれたのか、どんな性能を持っていたのか、そしてその精神が今のクルマ作りにどう受け継がれているのか――そんな“電気自動車の原点”に、ちょっとロマンを感じながら迫ってみたいと思います。
戦後の混乱期に生まれた“希望の電気カー”——たま電気自動車の誕生背景
1945年、日本は戦争に敗れ、国土の多くは焼け野原。燃料や食料すら手に入りにくい時代が続いていました。そんな状況の中、交通もまた大混乱。ガソリンが配給制だったため、自動車の多くは動かすことができず、クルマは“あるだけ”の存在になっていました。そんななかで注目されたのが、石油に頼らずに走れる電気自動車という選択肢です。
この新しい挑戦に立ち上がったのが、かつてゼロ戦のエンジンや航空機部品を作っていた航空技術者たち。彼らは戦後の軍需産業縮小により、行き場を失っていました。しかしその優れた技術力を活かし、「たま自動車株式会社(後のプリンス自動車工業)」を設立。電気自動車の開発に挑んだのです。
「たま電気自動車」は、こうして1947年に誕生しました。名前の「たま」は、会社が拠点を置いていた東京の多摩地区から取られたもの。当時としては珍しいモノコック構造を採用し、鉛蓄電池とDCモーターを搭載。大人4人がしっかり乗れるボディサイズを持ちながら、電気だけで約60kmも走行できる性能は、当時の日本人にとってまさに“未来のクルマ”でした。
GHQ(連合国軍総司令部)からの試験も高く評価され、官公庁や電力会社に納車されるようになります。電気で走るという斬新さと、戦後復興のシンボルという意味合いもあり、たま電気自動車は当時の人々にとって“希望”のクルマだったのです。
電気自動車の“ご先祖さま”?今見ても驚く技術と、そして限界
「たま電気自動車」が誕生した1947年という時代背景を思い出してみてください。終戦直後、物資もエネルギーも圧倒的に不足していた頃に、このクルマは誕生しました。ガソリンが統制下に置かれていた一方で、復興に向けてどうしても“人と物を動かす手段”が必要だったのです。そんな中で着目されたのが、家庭用電源でも充電できる電気モーターを使った自動車でした。
たま電気自動車に搭載されたモーターは、出力約4.5馬力。今のクルマと比べると非力ですが、電気モーターの特性である瞬時のトルク発生によって、街中をストレスなく動かすには十分な性能を発揮しました。最高速度は約35km/h。現在の感覚では“のんびり”かもしれませんが、当時の道路事情や速度制限を考えると、実用レベルに達していたのです。
バッテリーは24個の鉛蓄電池を車体の床下に配置し、一充電で約60kmの航続距離を確保。これは戦後直後の用途を考えると、かなり実用的な数字でした。充電は家庭用電源から行えるため、専用設備が不要というのも、意外なほど先進的。現代でいう「V2H(ビークル・トゥ・ホーム)」の思想にも通じるものがあります。
また、航空機設計の技術を活かしたボディ構造も注目です。木と金属を組み合わせたセミモノコック構造は、軽量性と強度を兼ね備えており、乗車定員4名をしっかりと確保しながら、限られた素材と加工設備で最大限の効率を追求していました。この“工夫の塊”のような車体設計は、現代のエンジニアが見ても学ぶべき点が多いと言われています。
一方で、やはり当時の技術で「完全な電気自動車」を実現するには限界もありました。最大の課題は、鉛バッテリーの重量と寿命です。たまデンの車両重量は約1100kgと小柄な見た目に反して重く、加速性能は鈍重に。また、鉛電池はこまめな補水や整備が必要で、使い勝手の面では手間がかかりました。冬場には寒さでバッテリー性能が落ち、最悪の場合、始動すらできないというケースも報告されています。
さらに、当時の日本には「電気自動車を使う環境」がまだ整っていませんでした。外出先での充電手段がないことはもちろん、一般家庭の電力事情も安定しておらず、長時間の充電にはリスクが伴いました。そのため、実際にたまデンが活躍したのは官公庁や電力会社、郵便局など、使用ルートが決まっており、整備環境が確保できる限定的なエリアに留まります。
それでも、こうした課題を抱えながらも「電気でクルマを動かす」という発想をかたちにし、実際に社会に送り出したたま電気自動車は、やはり驚くべき存在です。最新技術の詰まったEVとは違い、“シンプルで原始的だけど確かに走る”という事実が、当時の人々にとってどれほどの希望だったか。未来を信じた人たちが、未来を動かした。それが、たまデンの一番の魅力なのかもしれません。
プリンスから日産へ、そしてリーフへ――たまデンが残した未来へのDNA
「たま電気自動車」を製造していたのは、後に「プリンス自動車工業」となる企業でした。プリンスといえば、後にスカイラインを世に送り出し、日本のスポーツセダン文化を牽引した名門メーカー。そのルーツが“電気自動車”にあったというのは、ちょっと意外ですよね。
プリンスはその後、ガソリンエンジン車の開発に注力するようになり、スカイラインやグロリアといった名車を生み出しましたが、1966年に日産自動車と合併。ここから「たま電気自動車」のDNAは、日産へと受け継がれていくのです。
そして2010年、その遺伝子が花開くときが来ました。世界初の量産型EVとして日産が送り出したのが「リーフ」。たまデンから約60年、バッテリーもモーターも技術は桁違いに進化しましたが、「電気で走るクルマをつくる」というスピリットはまさに、たまデンの再来。実際、日産のEVプロジェクトに関わったエンジニアの間では「私たちは、たま電気自動車の後継者である」という言葉が合言葉のように語られていたそうです。
さらに2020年代に入り、EVの本格普及が進むなかで、再び“たまデン”の存在が再評価されつつあります。現存する実車は日産のヘリテージコレクションに保存されており、イベントなどで展示されることもしばしば。その姿は、レトロでありながらどこかモダン。そしてなにより、技術者たちの“未来を信じる力”を今に伝えてくれているのです。
まとめ
たま電気自動車は、ただのクラシックカーではありません。ガソリンが手に入らないという切実な社会背景から生まれ、電気で人を運ぶというアイデアに真剣に取り組んだ結果として誕生した、まさに“日本最初の市販EV”です。
モーターやバッテリーの性能こそ現代とは比べものになりませんが、その技術的な挑戦、そして社会のために役立つモノをつくろうという情熱は、今でも胸を打たれます。そして、その系譜はプリンスから日産へと受け継がれ、「リーフ」や「アリア」といった最新のEVたちに命を吹き込んでいるのです。
もし今、たまデンが目の前を走っていたら——きっとそれは、過去の遺物ではなく、“未来がここから始まった”という象徴として、私たちの目に映ることでしょう。